因幡の傘踊り

 因幡の傘踊りは、百個もの小鈴をつけ、赤、白、青、金、銀、と美しく彩った長柄の傘を使います。 踊る人は、そろいの単衣(ゆかた)に手甲脚絆(てこうきゃはん)、白鉢巻、白たすきの、りりしい姿で、 唄に合わせて傘を回転させながら、強弱のリズムよく振り回す、ほんとうに勇壮で動きの激しい踊りです。 昭和49年には、「鳥取県民俗無形文化財」に指定されました。
では、このように勇壮な傘踊りはどのようにして始まったのでしょう。  江戸時代末期、因幡地方が前代未聞の大旱ばつになり、田畑は割れ、 作物は枯れ草の状態となり、農民は、1日も早く雨が降って大旱ばつからのがれたいと神に祈りました。
この時、五郎作という年老いたお百姓が、3日3晩すげ笠を振り回して踊り、雨乞いの祈願をしました。 この祈願が天に通じたのか、3日目の夜、大雨が降り、大旱ばつも解消し、大飢饉もまぬがれたといいます。 しかし悲しいことに、雨乞いの疲れからか五郎作さんは数日後に帰らぬ人となってしまいました。 村人は大変悲しみ、五郎作じいさんの霊をなぐさめ、しのびたいと考え、その年の盂蘭盆から五郎作じいさんが踊った 時と同様にすげ笠を手に踊りが続けられるようになったのです。 その後、明治29年ごろ、若者たちの間にバクチがはやり、頽廃的な気運が強まっていた時、若者の長として、 この事を心配していた高岡の山本徳次郎は、なにか健全な娯楽はないかと考案したのが長柄の傘に振りをつけたものでした。 幸い徳次郎は、剣道の達人だったので、剣舞の型を踊りに取り入れて、踊りを完成させ、 この踊りはこの地区の青年たちに受け継がれ「因幡の傘踊り」といわれるまでになりました。 その後いくたびか盛衰をかさねたが昭和23年11月、天皇陛下が山陰行幸の折三朝で天覧に供し、 ついで昭和25年には大1回全国郷土芸能大会に出演して、一躍有名を馳せ、県の観光宣伝には欠かせない存在となった。 昭和45年に大阪で開かれた万国博覧会でも3回公演し、46年には「国府町因幡の傘踊り保存会」が結成されました。 平成5年には中国、北京で初めての海外公演を行い、平成7年にはニューヨークでのカーネギーホールで発表しました。 このように、因幡の傘踊りは、世界に友情と交流の輪をひろげています。  この偉業を後世に伝承するために、あかね荘前に創始者徳次郎の顕彰碑が建立されています。

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